朝ドラ『エール』が、2020年3月30日(月)からスタートしました!
主人公の古山裕一を演じるのは、俳優・窪田正孝さんです!
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そして、朝ドラでたびたび話題に上がる主人公のモデル。
数多くの応援歌や行進曲の作曲を手がけ、生涯で5,000曲を作曲したと言われる古関裕而さんがモデルです。
今回は、朝ドラ・エールの主人公「古山裕一」のモデル、古関裕而さんの
- プロフィール
- 人生や功績
- 名曲「10選」
についてまとめてみました。
エール モデル「古関裕而」プロフィール
朝ドラ・エールのモデル「古関裕而」さんのプロフィールをご紹介します。
古関裕而:プロフィール
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本名 | 古關 勇治 |
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生年月日 | 1909年8月11日 |
没年月日 | 1989年8月18日(80歳没) |
出生地 | 福島県福島市 |
職業 | 作曲家(応援歌・行進曲・戦時歌謡・歌謡曲) |
活動期間 | 1931年 – 1989年 |
受章歴 | 紫綬褒章受章(1969年S44) 勲三等瑞宝章(1979年S54) |
古関式作曲法
古関裕而さんは、50年を超える作曲家人生の中で、作曲する際に1度も楽器を使ったことがないことで有名です。(少年時代を除く)
そんな古関式作曲法は、
・五線紙
・ペン
のみを用意し、テーマや詩の情景を思い浮かべ、頭の中に湧いてきたメロディを五線紙に書き取っていくスタイルでした。
300の学校に校歌を作曲
古関裕而さんは依頼に応じて、全国の小中学校・高校・大学に至るまで、
・校歌
・学生歌
・応援歌
を作り続け、その数は約300曲と言われています。
その中でも特に、故郷・福島県内の学校に提供された校歌は100曲を越えます。
古関さんの母校「福島商業高校」野球部が全国大会で勝利した時は、古関さん作曲の校歌が甲子園球場で熱唱されたことも!
エール モデル「古関裕而」の人生
朝ドラ・エールのモデル「古関裕而」さんの人生を
- 少年時代
- 青年時代
- 戦前・戦中期
- 晩年
- 没後
の順に、時系列でまとめてみました。
古関裕而:少年時代
福島市で老舗呉服店の長男として誕生。
父・三郎次が、当時はまだ珍しかった「蓄音機」で聴いていた、浪曲や民謡が音楽との出会い。
小学3年生のとき、担任の遠藤喜美治先生の指導で初めて作曲を経験。
母・ひさに買ってもらったピアノで、作曲を楽しむようになる。
福島商業高校へ進学。家業を継ぐために商業高校を選んだが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中の日々を送る。
妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等を買い集め、当時盛んだったハーモニカ・バンドでの活動に打ち込み、独学で音楽理論を学んだ。
ある時、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲し大勢で演奏し、初めて自分の作品が披露される。
なお、福島商業在学中に家業の呉服店が倒産した。。
古関裕而:青年時代
🔽昭和3年(1928年)
伯父が経営する川俣銀行へ就職。
仕事の傍ら作曲活動は継続し、古関さんが尊敬する作曲家・山田耕筰と文通を始める。
🔽昭和4年(1929年)
イギリス国際作曲コンクールへ入選。
その新聞記事を見た、声楽家志望で愛知県豊橋市に住む17歳の内山金子から手紙(ファンレター)が届き、文通が始まる💕
🔽昭和5年(1930年)
熱烈な文通を経て、古関さん(20歳)と金子さん(19歳)は結婚。
古関さんは大変な愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であった。
さらに、作曲家・山田耕筰からの推薦によって、日本コロムビアレコードの専属作曲家に抜擢され、上京した。
古関裕而:戦前・戦中期
🔽昭和6年(1931年)
早稲田大学応援部の依頼を受け、応援歌「紺碧の空」を作曲。
🔽昭和10年(1935年)
この年に作曲した「船頭可愛や」が初の大ヒットを記録。
🔽昭和11年(1936年)
大阪タイガースの歌「六甲颪(おろし)」を作曲。
🔽昭和12年(1937年)
日中戦争の最中に「露営の歌」を作曲。その後も「暁に祈る」や「若鷲の歌」など戦時歌謡を手掛る。
自らも慰問のため、中国やシンガポール・ビルマなどの戦地を訪ね歩いた。
🔽昭和14年(1939年)
読売ジャイアンツの応援歌「巨人軍の歌(野球の王者)」を作曲。
古関さんはスポーツにあまり興味がなく、プロ野球でも特定のチームを応援することはなかった。
そのため、阪神と巨人それぞれから応援歌の作曲を依頼された際、両方とも断らず中立の立場で依頼を引き受けた。
中日ドラゴンズの初代球団歌「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」も、古関さんが作曲した。
古関裕而:戦後
劇作家・菊田一夫と手を組んで、NHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」や「君の名は」などの音楽を手掛ける。
また、戦争犠牲者への鎮魂曲として作曲した名曲「長崎の鐘」は、歌手の藤山一郎さんが歌唱し、多くの人に幅広く支持された。
その他にも、
・夢淡き東京
・フランチェスカの瞳
・イヨマンテの夜
など、数多くのヒット曲を世に生み出した。
スポーツ関連では、昭和23年(1948年)に「全国高等学校野球選手権大会」の大会歌「栄冠は君に輝く」を作曲。
そして、昭和39年(1964年)には「オリンピック・マーチ」を作曲し、東京オリンピックの開会式を彩った。
古関裕而:晩年
フジテレビ系の音楽番組『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員を、1972年10月の開始から1984年6月24日まで務めた。
当時の司会者は萩本欽一さん。
1977年「夏の甲子園」では、大会歌と母校・福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌をナインが合唱した。
福島市最初の名誉市民で、1988年11月12日に「福島市古関裕而記念館」が完成。(本人は入院中だった為、未訪問。)
1989年(平成元年)8月18日午後9時30分、脳梗塞のため聖マリアンナ医科大学病院で没した(享年80歳)
古関裕而:没後
古関さん没後、国民栄誉賞の授与が遺族に打診されるも、
「元気に活動しているときならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか?」
と、没後追贈に疑問を持ったため辞退。
2009年4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関さんの作品が採用される。
在来線ホーム「高原列車は行く」
新幹線ホーム「栄冠は君に輝く」
発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れている。
2009年8月、同じく生誕100年を記念し、福島市の福島駅東口駅前広場にモニュメントが設置された。
制作・施工費は約1,500万円。
30歳代後半の古関さんが愛用したオルガンを模ったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきにメロディーが流れる仕組みになっている。
2017年夏以降、出生地などで「野球殿堂」入りを応援する動きが活発になっている。
エール モデル「古関裕而」名曲【10選】
今回は、朝ドラ『エール』の主人公・古山裕一のモデル、古関裕而さんをご紹介しました。
1945:高原列車は行く
1931:紺碧の空
1936:六甲おろし
1940:暁に祈る
1952:黒百合の歌
1968:若鷲の歌
1944:ラバウル海軍航空隊
1949:長崎の鐘
1949:イヨマンテの夜
1948:栄冠は君に輝く
朝ドラ『エール』は、2020年3月31日(月)から放送開始です。
それでは、最後までご覧いただき有難うございました!